2013年8月29日木曜日

Movie: Star Treck Into Darkness (2013)


 前作の記憶が曖昧なまま、J.J.Abramsの新作として鑑賞。最初の劇場版シリーズとは違って、単発で観ても必要な知識に関係なく楽しめる。
 これだけシリーズが劇場に登場すると前後関係において混沌とする。近年のシリーズは最初のシリーズより前の時代を描いているということなので、映像技術との差も含めて違和感は否めない。いやむしろ暗黙の了解のもとに決められた範囲での公証とすべきなのだろう。
 どうしても人類末期的CG大作の中の一つとして観てしまう自分がいるのは、宇宙にイメージしてきたゆったりとした(例えば2001年宇宙の旅のような)奥深さを感じる映像感覚ではなく、アクション中心のスピーディなものがトレンドにあるからかもしれないが、少なくともスターウォーズとの棲み分けとして、スターウォーズがファンタジーであるのに対して、スタートレックは自分の中ではリアルに近いSFとして思っていた点がある。今回の映像でもサンフランシスコの雰囲気などの絵についてはスターウォーズでは絶対に出てこない感じであるし、冒頭のアステカ風の民族にしても近年の現実的な話題として考えてしまうだろう。そんな部分があるからこそ、別の意味で監督のJ.J.Abramsが今後のスターウォーズに充てる絵柄と対比したいものである。

 やっぱりJ.Goldsmithの旋律が安心感となることは間違いない。

2013年8月23日金曜日

Movie: Pacific Rim(3D) (2013)


 ウルトラマン世代で育った人たちがある程度大人になると、かつての愉しみは脳裏に残しながらも昔はこんな「子供騙しの絵に夢中になっていたんだな」と現実対比を公言することがある。それは以前の自分から比べて以下に成長したかを示す証としてかもしれないが、一方では着ぐるみを来たデパート屋上で行われた子供ショーと一線を画したいからでもある。しかし多くの男の夢としては昔の精一杯だった特撮技術を今の世界にリアル蘇らせたいことこそが本当の欲望かもしれない。そのメインストリームとしてJurassic ParkのSpielbergが技術的な方向付けをした後、あのdel Toroがここに来てしまった。
 今回は残念なことに3Dながらも日本語吹き替え版であった。よって微妙なニュアンスが伝わってこない。別の機械に英語版を観るとするにしても、内容としては日本のかつての様々なコンテンツがすし詰めされたような内容が嬉しかったりする。
 怪獣映画といえば日本映画史に欠かしてはならないものである。戦争の悲劇や核の脅威を「怪獣」に置換えて世界を壊滅的な状況に陥れる風景とオドロオドロした音楽の時代。十分に痛ましさを痛感した筈である。そこへウルトラマンや子供に優しい怪獣などで怪獣映画がエンターテインメントのジャンルへ。戦争や核の脅威が置いてきぼりになってしまった感があり、今に至るまで怪獣映画の呈した問題点を語れないまま好き嫌い議論だけが残っていた。
 del Toroの本作は思った以上に(エンターテインメントながらも)怪獣の意義を伝えてくれているのは嬉しい違和感だった。「世界がいがみ合っている場合ではなく、協力して…」的な世界観で塗りつぶしての展開だけに、かつての国に閉じこもった作品とはやや違って見えた。

 三度くる怪獣の波。この映画はその迫力を堪能するだけで十分だろう。

2013年8月16日金曜日

Movie: World War Z (2013)


 こうまで暑い日が続くと映画館もありがたい存在になる。案の定、家族やカップルで満杯の状況下での埼玉某所で観た。
 事前情報を収集しなかったので、何の映画なのか分からなかった。予告では、やはり、また、地球の危機的なリアル破壊映像一本という感じには捉えていた。

 基本、この手の映画はもう好きではなくなってしまった。明らかに物語に入り込めないのは目に見えているからである。しかし、そうは言っても、気持ち新しさを期待する自分もまた居るのである。
 ネタバラシはやめておくが、この映画、冒頭は「宇宙戦争」的な迫力があったのでかなり期待して凝視。ところが中盤から怪しさが露呈。道筋がふらついている感じもするし、怪我にも耐えるスーパーマン像の主人公も受け入れ難い感じがする。結果としてエンタメのウエイトが高くなったせいで纏まりに乏しい映画となったようだ。まぁ、夏休みのアトラクションとしては良好な映画館もしれないが、感動には至らない。


 恐怖でも意外と冷静な人物達が最後まで気になった。

2013年8月1日木曜日

Movie: Emperor (2012)


 この映画は米英のほかシンガポールやスェーデン、デンマークなどで公開されるも、中韓とかドイツには公開されていない。中国が如何に功みに南京映画を作っても日本には公開されない。歴史的な見解は基本的には偏見の色合いが濃い上に、もし歴史の一場面を切り取ってデフォルメすることは、歴史の流れに対して堰を作ることになりはしないか?とも思う。
 別視点から観てみると、日本人にとっては、かつてアメリカ人側から日本人に対して思っていたことを現在の日本と中国に当てはめて考えることができるかもしれない。

 史劇として美化することは構わないが、安易に「史実」にしてはならない…と、この映画にしても同様の思いが。映画の焦点となれば特に最後の天皇の仕草になりそうだが、もちろんこれも曲解かもしれないので、映画として観ているという枠からはみ出ないようにしたい。

 意外なテーマの映画であり、アメリカの好むダイナミズムのある内容ではないのだが、日本人だからか、思ったよりも溶け込んで観れる。が、あまり山となるものがなく当たり前的な進行なので、気持ちが中途半端な状態で終えることにもなる。それでもこういった映画を製作したことは評価したい。「太陽」「マッカーサー」などと並べて観てもいいかも。

 映画では、近衛の言った内容が印象的である。どの国にしても真似て大国を目指す。その反面、真似るは(魔ねるともなり)一種の歴史矛盾を生み出す。それは闇市場に出回る模倣品だけではなく、原子力開発や宇宙開発にも及ぶものである。しかしだれもその「正しさ」を定義できない(そう思い込んでいる人は多いが)。つまり木の実や草や野兎を食べて生きてきた種族が、あるときから海の魚を食すようになったときに、誰も未来に起る変化を考えようが無いということ。その辺を考えてしまった。