2010年8月30日月曜日

Hot Spring Area - Misasa, Tottori


 三朝温泉。一度は行こうと思っていたもののなかなか切っ掛けがなかった。

 本当は家族で行きたかった。しかし単身赴任の身である自分。仕事の疲れを取る意味でもひとりで行くことにした。

 目的は温泉に浸かることである。

 相変わらず暑い日。

 安来から出発し倉吉で降りる。
 いきなり温泉にはいかず寄り道。倉吉のパークスクエアにあるに二十世紀梨記念館に立ち寄り、「倉吉に来た」という雰囲気を高めるのであった。幸運にも、今日は入館無料。即シアターにて二十世紀梨についての情報をみることができた。その後梨の味見も...。これは意外にも楽しい。自分の興味と近い部分があったからだろうか。最後にパーラーで梨ソフトを食べたがよい締になった。

 倉吉東高校前からバスで三朝に向かう。日曜日だというのに学校のグラウンドには学生が多かった。

 温泉の入口で降りる。三徳川の河原まで出て景観を楽しむためだ。予想以上によい雰囲気。確かに暑いのだが、水の流れでその暑さも半減するようだ。対面にある遊歩道には木陰が多く、与謝野晶子の残した句の碑もあったりして、ちょっと心が引き締まる気分だ。ただセミの声や雲の巣の多さから夏っぽさが占める割合のほうが多いことは間違いない。

 公衆浴場「たまわりの湯」に入る(五百円)。ここはちょっと狭い感じ。湯はややヌルヌルしている。温泉地の雰囲気は公衆浴場である程度把握できる(と思っている)。

 宿はネットで予約した旅館。格安(三千円)の部屋。これが予想以上に素晴らしい部屋だった。トイレバス付き。部屋も広い。食事は当然付いていないが大当たりを引いた気分になった。夕方には大浴場の岩風呂に入る。まさにこのときにために来たようなものだ。最高だ。

 夜は、居酒屋でビールとお好み焼き。周囲は日曜の夜だというのに飲み会で溢れ、ひとりの自分はカウンターで野球中継を見ながら箸を動かす。

 夜もまた散歩するのは楽しい。ただお金の制約もあり欲は出さない。

 こんな感じで2日間過ごした。安来から出発し、倉吉、三朝を楽しんだ一泊ひとり旅行。なんと交通費、食事などを含め総額が8千円。充実した週末になった。ラッキーの極めつけは、安来の住処に到着してすぐ豪雨となったこと。あぁ神様。
 


かじか橋からの眺め


遊歩道から古風な作りの旅館を撮る


かじか橋の足湯


たまわりの湯


宿の部屋


南の方面


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2010年8月23日月曜日

Movie: The Karate Kid (2010)


 アジア圏以外では「The Karate Kid」というタイトルをつけたリメイク作品。オリジナルは1984年のAvildsen監督によるもので、Ralph MacchioとPat Moritaのコンビは印象深かった。自分と同様に一般レヴュワーの多くはオリジナルと比較していた。

 なぜタイトルが「Katate」だったのか?。リメイクということからオリジナルを尊重したのか、Karateのほうがコマーシャルラインに乗り安かったのか...(「KungFu Panda」 というアニメーションがあったことから、このラインは薄い)。いずれにしても、欧米も含め多くはKungFu Kidという風に捉えている。

 ただ、空手にしてもカンフーにしても、武術の基本「気」という部分ではつながっているめ、全く別物と呆れるまでには至らない。箸でハエを捉えるエピソード。足を執拗に攻撃するところなどは、オリジナルを曲げないという姿勢がある。一方で、かつての「ワックスオン、ワックスオフ」を「ジャケットオン、ジャケットオフ」としたり鶴のようなポーズで、コブラの動きを悟る部分では、中国舞台という意味での新たなる世界観を出そうという感じが伝わる。

 しかし、全体を通してみるとオリジナルで受けた「感動」の「か」の字も出て来ない。これはまずキャラクターのパーソナリティ差によるところが大きい。一番大きいのは、オリジナルがアメリカ舞台の中で日本の空手から「心」を学んでいく感じがよかったのだが、今回の中国版、主人公が何かを学びとって成長している姿には映らない。逆に、これで勝てたら「カンフーとはそんなものか?」と誤解を受けてしまいそうな内容になっている。それにどこかで「燃えよドラゴン」風を意識した「寄り道」も感じてしまうし...。

 残念ながら、この作品は単純にオリジナルの価値を浮き彫りにする役目だけのために作られた...と言える。


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2010年8月22日日曜日

Move: Time Of Eve (2010)


 日本は戦争ができない国だ。憲法でも武力威嚇や武力行使について「永久に放棄」とある。もしこれを改訂することがあるのならば「永久」をどのような意図で除去したり、もしくは変更するのかは想像もつかない。しかし実際問題、現実味を増している東アジアの有事の場合、アメリカなどは同盟国の支援や保護に真剣に取り組むのだろうか?。今や世界が繋がる中で「他人事」という考えも実は根付いているのである。メディア誘導から生まれる偏見。肉筆によるコミュニケーションが薄れている社会構造が国際関にも政治の重大局面でさえも的外れな成り行きを生み出す予感がする。

 「イヴの時間」。短編シリーズでみたロボットと共存する近未来生活が劇場版となる。この映画でまず思ったことのひとつ、「矛盾は打破できない」。矛盾があってこそ生活はある...のだろう。次に思ったこと。今で言う他国との共存をグローバル社会というならば、それをロボット社会にすり替えた場合、見えづらかった問題点が露呈されるということ。矛盾の面から見るならば、この中で登場する倫理広告に「機械が作ったトマトを、食べますか?」というのがある。「機械を人間が作ったもの」と定義できるならば、ここには矛盾がある。今ならば外国依存形の加工貿易のようなものに近い考え方だが、一概に同等ではない。そして、グローバル社会の面からみれば、このアニメでは「イヴの時間」という、人間もロボットも区別のつかないスペース(喫茶店)が存在するのだが、そこでは人間もロボットもどちらもコーヒーは飲む。ルールという拘束具から開放されたロボットは人間のように振る舞うし、人間のような冗談も言う。目線の違いがあるとしたら「新しい人」がもたらすときである。

 ここで現実に振り返れば、未だに「グローバル」の根底には(イヴの時間とは対局的に)違すぎる目線。

 自分のなかでまだ論法をまとめられない問題....このアニメはシンプルな場面設定において、その裏側はかなり複雑である。


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2010年8月12日木曜日

Movie: Chonmage purin (2010)



 地味である。小ぢんまりしている。奇抜さは感じない。

 タイムスリップの件はわりとどうでも良い感じだ。むしろ帯刀する侍姿に対する人々の反応が覚めた感じで、そっちがむしろ怖い。

 全体的に田舎臭さのある展開なのだが、面白かったのはハンバーガーショップでの安兵衛の行動と客の反応。「日本もこうなってしかるべき」を表した場面だと思う。その他、ケーキの城作りでの機転。そして応用力。便利すぎる世の中で鈍重になった人の生活に蹴りを入れているようだ。

 ものすごくギクシャクした展開なのだが、いい感じの流れには成っていたと思う。

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Movie: Salt (2010)



 Angelina Jolieの役には凹凸がある。流石に映画の出来はどうであれ「Changeling」や「A Mighty Heart」のような人物像にはあまり好感は持てない。むしろアクション女優だから本領発揮できる女優ではないだろうか。しかしアクション場面に見せ場を作りすぎれば、映画の質の面で何かが犠牲になる。これもそう。よって彼女としての「これだ」という作品に出会うにはまだ時間がかかりそうだ。

 アメリカ映画には、現代の政治と絡めての架空の交戦を設定した映画は多い。映画にあまり現実味を持たせすぎるとどこかで問題が勃発してもおかしくはない。今回の映画は、ロシアのスパイという設定だが、あまりに大味過ぎて映画の細部で議論となることにはならないだろう。

 結果的に、結局冒頭で成り済まし演技をしていたCIAスタッフが複数いたことになるのだが、これは前半の行動を思い返すと些か解せない点、いろいろとある感じ。物語を面白くさせる意味でか脚本の強引な持って行き方による違和感の典型例ではなかろうか。

 最後の場面は何を語る?あまり詮索すべきではないのか?

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2010年8月1日日曜日

Movie: The Borrowers (2010)


Arrietty. An impression of her is different from the dwarf in the early movies. This is the story of small people smaller than "the dwarf". In fact, this movie let us awake from arrogance of human being.

 普段カップの大きさと水の粒の大きさとの差を考えたことがなかった。カップが小さいと水滴が大きく感じる。これは飲むときに違和感とならないのだろうか、自分がArriettyのように小さい身体にならなければわからないかもしれない。それは目の前に大きな虫や巨大な猫が登場すること以上に怖さがある。人間や動物は生存するのに適切な大きさになっている筈なのだが、極端に大きい、或いは小さい哺乳類が食べる草とか飲む水の食感までこれまで想像するに至らなかった。Arriettyにはこんな「共存性」がテーマとして潜在的にあるのではなかろうか。

 この映画は不思議な点がある。SHOもHARUもはじめて目にしても小人を怖がらない。非現実感の容認できる社会に染まり過ぎた結果なのかもしれない。20年ほど前なら難しい視点となったことだろう。しかし最早「E.T.」の時代ではない。今では素直に受け入れられるのかも...。さらにHARUにおいては、小人を害虫のように駆除するに走るのだが、コミュニケーションが取れる相手なのにそれをせず一方的な行為に走る。誰の利益のため?。この人物の位置づけが見えなくなるのだが、これを人間社会に置き換えれば今の世の中ではすっぽりハマる似たような人物もいたりするのだ。実に不思議である。

 オリジナルタイトルは「Kari-gurashi no Arietti」。


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