2016年5月30日月曜日

Movie: Tokyo Story (1953)


 尾道で生まれ育った家族らしく、言葉遣いがどことなく懐かしい。Haruko Sugimuraは広島出身だからか、最も昔よくいた人っぽく振舞われる。

 映画は通常衣服等で季節感が出るが、取り立てて注目すべき部分ではないが、この映画では始終うちわが使われる。この表現が実に場面に引き込まれる効果を十二分に果たしている。

 興味があったのが、風景を映す場面に登場する黒煙を吐く煙突。これば当時として一般の風景だったのだろうか、今では恐ろしく感じる表現に映る…。

 Chishu Ryuの「いやー」から始まるお決まりのセリフ。喜怒哀楽の様々な場面に拘らずに使われる。ここでこの中心人物の人柄を明確に表しており、いままでの家族の記録を代弁しているかのようだった。

 Setsuko Haraのアパートで見られた貸借りのある生活。これは「An Autumn Afternoon」で登場する場面とも共通点があり、生活の様々な形がさりげなく語られている。どうしてなのか地位と裕福さの反比例的な印象も受けるのであった。

 戦後10年も経っていない銀座の街並み。日本の復興力というのはこの時代が最も端的であり、今の復興ベクトルは様々な意見対立や損得勘定が壁となり前進できない感じと比べてみると実に感慨深い。

 総括すると、この映画は、冷たくもあり、暖かくもある時代の変わり目の一コマである。子供が駄々を捏ねられるくらいの余裕ある生活が広がりつつある時代になる、その一方で、依然、昔を装う親世代との差は今に置き換えると、人間のもつ本来の能力を削っても「楽」や「便利」を求める程の良い技術革新社会と、必然性から生まれた職人気質との差と言えなくもない。正に未来を暗示させる映画である。

 このサイトでの評価を例に出すまでもなく、とにかく世界での評価が高い。この映画の着目点も、時代に沿って変化しつつあるのかもしれない。



2016年5月20日金曜日

Movie: The Sea of Trees (2015)


 思った以上に面白く観れた。日本が舞台となっているが、あまり日本色が出ていないところも違和感なかった点であろう。

 基本、人間の絡みを主体とした劇であり、例えば“The Squid and the Whale”みたいな極端な雰囲気もある。それに加えて、青木が原に集まってくる人たちには様々な理由がありながら、森という視点に置き換えた時、すべてが同じ境遇の下で葛藤し、その末路も違うというメイズのような世界観が加わったことで、間違えれば殺風景になりかねない場面を、無難に繋いでいると思った。

 ただ、次に挙げる3つの不思議感は、最後までサスペンドされてしまうため、満足の域まではいかない。1つ目は、学者の立場でありながら、理論的に自分の位置(太陽の位置とか、時計とかを用いて)を認識できないのか。2つ目はダムが決壊したような場面の疑問。最後はKen Watanabeの存在。もともと彼のミステリー性が主題なのだと思うのだが、英語の会話能力や家族の名前の謎あたりだけでは解決できないものがあった。

 それでも、青木が原という知っていそうで知らない映像には興味あったし、いい感じでストーリーと絡ませたと思う。そして、Matthew McConaugheyの存在もDustin Hoffman的な印象があり、面白かった。


2016年5月10日火曜日

Movie: The Way We Were (1973)


 実は初めての鑑賞である。この映画で2つのアカデミー賞(主題歌、ドラマスコア)を受賞したMarvin Hamlisch。同年彼は、映画「The Sting」でもアカデミー編曲賞を受賞しており、彼の黄金年であった。またこの年の主な映画には「American Graffiti」や「The Exorcist」「Paper Moon」「La nuit américaine」などがあり、アメリカンニューシネマをはじめとした革新的な映像手法を以って文化の変化を印象的に映した映画が多く登場した頃だった。なぜこの映画を見過ごしていたのかは、自分でも不明であるが、とにかく本日、劇場で観れたことは嬉しかった。

 KatieとHubbellの関係は、些細なバカバカしい関係にも見えるが、同時に社会の体制に縛られたできる限りの行為にも見え、画に映らない憤りとかジレンマとかが多少のユーモアを交えながらも描かれていたと思う。当時売れっ子だった主役二人だが、演技からはそんな雰囲気を読み取れないほど自然な演技に見えた。今では当たり前となった携帯電話やパソコンのような出過ぎた小道具もなく、サプライズ的トリックもないストレートな男女の向き合った会話。これが映画を引き締めてくれた。加えて、戦後アメリカの政治に対する空気も何気に感じることができたのは良かったと思う。

 1970年代前半のアメリカンシネマはやはり魅力がある。ストーリーには、今だからこそ見て損は無い要素が溢れているのだ。


2016年5月1日日曜日

Movie: Spotlight (2015)


 一言でいうと、とんでもないテーマを扱った映画である。かつての映画「All the President's Men」のような展開を予想しつつ見ていたが、ポイントはそこではなかった。この映画で唯一不満な部分として、児童虐待の歴史的な側面を省いていたことである。だから、映画が終わって「なぜ?」という疑問を残した点は、「良い映画」という感想をかなり薄めさせた。
 映画では、司祭とその家族関係、被害者の意見がかなり重要なシーンになる。つまり、なぜこれだけの人数が同じような虐待を(国を超え、時代を超えて)行われていたのかという点を仄めかすシーンのことである。映画ではおそらく、そのあたりを画的にうまく表現しているのだと思うが、自分にとっては不十分感でしかなかった。それでも興味を抱かせたという点では見て満足な映画なのだろう。

 例えばBABYMETALを好きだと公言すると、海外の一部から「paedophilia」として軽視される。日本では(たぶん)理解できないことである。しかしこの「paedophilia」根っこは古くからあるカトリック教会のしきたり的に根付いていたものらしい。「化物語」の戦場ヶ原の過去のような悪魔祓い的なのものか、または独身司祭に与えられた暗黙のしきたりなのか、虐待を受けた側がやがて司祭となりそれを繰り返す連鎖的なものなのか、いずれにしても人里離れた村の慣習のようなものと捉えているのだが、そういった慣習も時代と人権意識の変化により「許されないもの」として近年、取り上げられたのだと思う。日本でも一部の地域では法を無視した慣習が残っているケースもあるので、一概に「悪」と否定はできない。多分に日本の捕鯨問題に通じるものがあるかもしれない。加えて、これに関して差別問題も関連してくる。カトリックの性的虐待の被害者には男性が多く占めているらしい。女性はインドのように差別的に扱われているとか。いずれも今起こった問題ではなく、何世紀も遡らないと理解できない問題のようだ。

 近年、過激派のイスラム教徒を批判する流れがある。だが、今回の映画を受けて、キリスト教も形は違えども類似した要素を持っていることがわかった。他の宗教だって大きな違いが無い筈だ。いままでの世の中「正、不正は別として、多数派の意見が時代を作ってきた」ことを再認識した。