2015年12月19日土曜日

Movie: Star Wars: The Force Awakens (2015)


 ネタバレを気にしている映画なので、ストーリーに伴う幾つかの疑問もここでは開示しないほうがよいだろう。

 ディズニー映画となることは昇格か格下げか、かつてのオープニング・ファンファーレは何処。
 映画の戦闘シーンは洗練されている。それはまるで「Private Ryan」 で驚かされた場面に通じるものもある。
 最初のシリーズで登場した3人を使いながら、全体に過去シリーズの拘りをいろいろな点から振り払おうとしている雰囲気も感じ取った。

 Lucusの手に寄る直前作「Ep3:Revenge of the Sith」は、トリロジー前後3部作同士の辻褄合わせ感が強かったため、新鮮味に欠けていたのだが、今回のEp7は、多くが推測しているストーリールートを裏切って来ているきている上、J.J. Abramsが得意とする爆発・破壊映像のインパクトが強かったため、新鮮ながらもときどきStarWars中の異端的な印象も受けてしまった。ただ、光と闇の部分はこのシリーズから除けない鍵として確信を持てたことは良かった。

 最初のシリーズではAlec Guinnessで、その次のシリーズではChristopher Lee。そして今回はMax von Sydowが出ていることもStarWarsシリーズの幅を感じるところだ。

2015年11月15日日曜日

BD/DVD: The Beatles 1+ [CD + 2 Blu-ray] (2015)


 かなり前よりビートルズの映像は色々な場所で目にして来た。東京のミニシアターで流されたビートルズ・フィルム・フェスティバル。TVKの音楽特集。シェアスタジアムのライブを公開した劇場…。それでも過去色々な場面で焼き付いた印象を遥かに超えた良質の映像がこのBlu-rayで出会うことができた。

 自分にとって、このセットの中での曲の目玉は、「Hey Bulldog」と「Rain」である。まるで時間差を感じさせないくらいの魅力がある。加えて、1966〜1968年あたりの映像は撮影コンセプトが時代背景と相成って面白かった。この頃の映像への力の入れ方が伺えるものである。まだ20代のいたずら好き青年の姿でありながら、世界屈指のクリエーターの才能で包まれたプロモに、今更、時代の変化の分岐点にあったことを再認識させてくれる。

 映画「Yellow Submarine」や「Let It Be」からの映像カットはあまり面白く無い。今でも1982年頃録画した映画「Let It Be」を見直すことがあるが、映画は映画のままの世界観として、単独で見たりする曲とは分離させて欲しいと思った。

 この2枚組Blu-rayではDISK2がメインといってもいい。テイクの異なる映像の思惑等がわかるのと、今に至るまでの映像技術とリアルタイム映像との融合もまた見所といえる。ただ、曲の並びが、バンドクロニクルなものになっているので、できれば映像制作年順にしてもらえると有り難いと思った。

2015年10月12日月曜日

Movie: The Intern (2015)


     今年観た映画の中で、一番楽しめたし、自分との境遇に通じるものが幾つもあった。Robert De Niroがすべてにおいて優しく、丸い人間に感じられたのは、かつての
「The God Father Part2」 や「Taxi Driver」から知っている人間にとっては不思議に他ならないのだが、そこも嬉しい部分ではある。
     面白いことに、ここのオフィスは、個々に仕切りのあるタイプではなく、日本にもよくあるアイランドタイプの机。やはり複数の人物を絡ませるドラマにはこっちの方が分かりやすい。最も見やすくしている部分として、執拗にぴりぴりさせる人物が登場しないこと。ここは褒めたいところだ。後半、やや過剰な展開もあったが、それはご愛嬌だろう。
     日本語のサヨナラが普通に溶け込んでいたが、何十年前では考えられなかった。あと何年か経てば日本語という拘りからも解放されているかもしれない。

Movie: Fathers and Daughters (2015)


 邦題では「パパが遺した物語」となるこの映画。小説家の父の遺作の存在が娘に如何に影響するか...のように思わせるタイトル。だが、原題から推測するに20年以上を超えて、昔と今の父娘各々の異なる面や共通の面に焦点を当てつつ、それでも変わらないものを感じ取る映画に思えた。確かに邦題のように小説が父と娘を繋げる役割になっているのだろうが、映画の特徴としては、恋人との間の葛藤を経てパパから自立する娘的な色が強い感じがする。
   「アメリカは全てカネ」Jakeのこういった表現は、本作の背景となるコアの部分が認識できる。色んな意味で生活レベルにおける差別感が、登場人物達の方向性を歪ませた空気を作り出し、命にかかわりそうな気持ち悪さまで感じられた。
 全体をとおして携帯電話やパソコンがほとんど出てこない映画も珍しいし、80年代のニューヨークの雰囲気もよかった。


2015年10月6日火曜日

Movie: Adieu l'ami (1968)


   劇場で古い映画を「今」鑑賞することについて、最近、色々な価値を見出している。一つ目は「時代の違いと考え方の違い」で、二つ目は「何がこの映画の魅力だったのか」。三つ目は「昔へのタイムスリップ」である。
   「Farewell Friend(邦題:さらば友よ)」は、実は初見である。かつてロードショウ誌の人気投票で常に上位にいたアラン・ドロン(Alain Delon)とチャールズ・ブロンソン(Charles Bronson)の映画であることはもちろん知っていたが、残念なことにテレビでさえも見る機会がなかった。今回この映画を見るに当たり、名作という肩書きよりも、二大スター共演映画という肩書きだけを信じきって臨むのが正しいと思った。実際、自分のような立ち位置である限り、そういう見方になってしまうに違いない。
    先に提示した「時代の違いと考え方の違い」において、特に白か黒か的なコントラストが強く押し出され、物語の設定の不鮮明さを凌駕するほどの映し方は面白い。今の映画作りとは明らかに違う。更には演劇的な手法で目立たせるテクニックは、この時代背景だからこそ生きるのであろう。次の「何がこの映画の魅力だったのか」を問われれば、やっぱり二大スターの魅力を押し出す映画だった…という一言だった。
    自分にとって、一番感傷的だったのは「昔へのタイムスリップ」感。かつて、明大前や池袋、新宿のミニシアターで鑑賞し終えたときと同じ雰囲気が自然と再現されたのであった。

   これを見た後、「シンジケート(The Stone Killer)」や「スコルピオ(Scorpio)」をまた見たくなった。


2015年9月20日日曜日

Movie: Kokoro ga sakebitagatterunda (2015)


 予想に反して、泣ける映画の構成ではなかった。スタッフも、「あの花」の泣ける流れに頼らず、むしろ一転させたような群像ものにしたと察する。
 「あの花」では、オープニングの「青い栞」のもつ日常感がしっかりと土台になりながら、物語の非日常の違和感で巧く色づけし、その相互の反応で心の琴線に触れる。。。そんな感覚が素晴らしかった。加えて、クライマックスで流れるエンディング「secret base」の持つ力。やや見方を変えれば舞台劇的な演出だったが、今回の映画では、その舞台劇をミュージカルというベクトルにしたものになっている。
 暫く観ていると、ストーリー中に日常的な土台が見当たらないからか、距離を置いた目線で見てしまった。もちろん、一つ一つは現実としてありそうな場面だし、秩父の風景がその効果を盛り上げてくれるのだが、高校生が聴く昭和歌謡が明示しているように、なぜか馴染めない異種的な印象は拭えなかった。
 エンディングもGalileo Galileiあたりでやって欲しかったのだが、ちょっと自分の期待とは外れたカタチとなっていたようだ。

Movie: Ant-Man (2015)


 アントマンについてはよく知らなかったのだが、60年代からあるコミックからということで、マーベルのネタはまだまだ底が深そうだ。
 とはいえ、コミックス的な奇抜な導入とはいえず、むしろ一般的なアクション作品の導入ぽくなっていたようなので、近くの小学生くらいの客がやや飽きていたようだ。アントマン自体も凄い能力を持っているわけではなく、虫サイズのヒーローであり、やや冴えない表現になりがちなところをCGで引き延ばしていた点は否めない。前半が前半だけに後半は落ち着いた表現のほうが良かった気がする。印象としてはドタバタ感を残して終わったような作品だった。ただエンドロール中と後で今後の展開のさわりがあったので、このシリーズも広がっているものだと思うが、ハルクやアイアンマンのようなフロントマンになるには、暫く時間が必要のようだ。
 やっぱりMichael Peñaは存在感がある。

2015年9月8日火曜日

Movie: East of Eden (1955)


   これだけ、新作に見たい映画がないと、昔の名作で気持ちを一新するのも有りだなと思い、さいたま新都心に出かけた。

    以前見たことがあるといっても、結局は吹き替えで大幅にカットされ、しかもコマーシャル付きのバージョンを見た、小学生頃の思い出レベルである。家庭のテレビで映画を見るときいつも思うのは、あまり気持ちを入れることができないという点。他の人はどうか分からないが、馴染んだ空気に安心してしまい、浅い記憶しか刻めないのも理由だろう。今回、劇場で見ることで、これまでの「(一応)見た」という思い出を消去したかったことも感想理由にはある。

   創世記をモチーフにしたのは有名な話だが、冒頭から「有り得ない」主人公の行動に名作感が薄れる思いだった。ところがこれが後に生きてくる展開になろうとは…意外であり当然でもあり。この映画は、エピソードの一つ一つに名シーンが隠れているのではない。現代では失われた様な、人物像の描き方こそが惹きつけられる一番のポイントだろう。

   創世記では殺める内容のところを、この映画では戦争に行くという意味に置き換え、悲劇的な点を描いているのだが、今見ると、悲劇という意味では(戦争の一番嫌な部分である)国と国との差別、憎しみの下りの強調があり、テレビでよく見る偏向的な正当性を押し付ける風潮、特に最近の国連事務総長の非公正的な行動や反戦?デモなどとラップして映ったりもした。つまり、国とか人種を肯定していながら、戦争を否定することは、究極の矛盾の表れであり、それらしいデモも安っぽく映る。この作品は、人のあり方として、カインの目、アベルの目の両目から見た本当の世界観を問う物として、今の時代に十分価値をなす物と思えた。

2015年8月16日日曜日

Movie: Jurassic World (2015)


   映像革命を齎した第一作目から20年も経つと、興味は「今とそれとの違い」に向いてしまう。だが蓋を開けてみると、そこは第一作目の焼き直し的展開でしかなかった。家族の微妙な関係と子供の好奇心。悪役的なスタッフに犠牲要員。危機から脱出した安堵も束の間で更なる危機。どれもこれもがパターン化され過ぎである。Michael Crichtonの原作を曲げない点からかもしれないが、これでは見る側の想像力テストにもならない。

   ハリウッドも含め、映画産業がこのような形になったのは過剰な映像技術の多用と、クリエイティブ性を失い、使い古されたモチーフと脚本によるところがある。勿論、興行の仕掛屋、制作屋もそうだろう。端的に言えば近年は「目は楽しめても、心は楽しめない。」作品が多過ぎである。むしろ最近ではパニック映画やオカルト映画やカーアクション映画だらけだった70年代作品のほうが輝きを感じる程なのだから。

    ただ、さすがに映像技術には感心する。予算の違い云々はあると思うが日本映画のそれとはまだまだ遥かな距離がある。映像重視か脚本重視、何れが良いとは言及を避けるが、どっちつかずの中途半端感が少しでもあれば、映画全体が安っぽくなることに異論は無い筈だ。

   ここでは、何度か書いたが、今では劇場でさえオリジナル言語版(字幕版)を見るのが難しくなっている。この作品は地方では殆どが吹き替えである。最早、出演者の演技を楽しむことさえ出来なくなった。日本の地方に住む外国人にとってはえらく災難だろう。。
    今、純粋に映画を楽しむ時代は終焉したのかもしれない。

2015年7月13日月曜日

Movie: Still Alice (2014)


 Julianne Moore演じるAliceと彼女の夫と子供たちの関係。一見普通であり、家族愛に満ちた幸せな家庭でもあり、権威もあり、何もかもが充実しているように見える構図なので、鑑賞する立場で言えば、やや見上げる目線でストーリーを追っていくことになるが、そこもまたこの映画の問題点提起にもなっているようだ。
 家族それぞれが持っている主張、プライド、考え方の距離感などが恰もサスペンス映画のように、講演の場面や観劇の場面、更には乳児を抱く場面でのAliceのしぐさに絡んでくるので、見ている側が受ける緊迫感が半端ではない。そしてAliceと娘二人との距離感が逆転していく様は残酷でもあり、必然でもある不思議な表裏の世界観。加えて夫の妻に寄り添う姿勢がありながらも何か心が自分の世界に飛んでいる雰囲気もまた効いていた。特にKristen Stewartの表情の変化もまた着目すべきである。

 最近の映画にはあまり音楽面で着目していなかったのだが、このピアノを加えた四重奏の演奏がとても印象的。ある意味でベートーヴェンの第九の第三楽章的な安堵と不安の感覚に近いものがあった。

 ここ最近出会ってなかったこの雰囲気の映画。もっとメインにしてもらいたいし、本来映画の持っている社会性を問えば、現状の映画ビジネスの鬱屈感から抜け出したと思うはずである。


2015年6月1日月曜日

Movie: Theory of Everything (2014)


 いったいこの映画に善悪や幸不幸が存在しうるのかという疑問を生むような、解の無い内容だった。世界でも有名なStephen Hawkingの伝記となっている。
 ふだんから考えていたことだが、成長するにつれ時間が短く感じる点について、例えば知らないうちに定量的概念を超越して本当に短くなっていたら、そこには時間の概念も打ち消されるのだろうとは思っていた。宇宙は宇宙であって、不思議的議論は人間だからこそ提起できるのだが、しかし宇宙は人間の考えた時間や物体のセオリーで片付けられない「何か」があって当然だろうから、幸せを求める男女関係もまた、そういう世界観になっていて当然だし、この映画自体がそういう作りになっていたことが面白い。 それにしても事実ならば、JonathanやElaineの存在は成り行きにしろ上手具合にマッチした存在だったのは、「何か」に繋がっているのかもしれない

 StephenとJonathanの関係が、同じ英国ながらEric ClaptonとGeorge Harrisonとの関係を思い出させられたりものして、ある意味で真理のあるものとしてとらえると、もしかしたら人間の凝り固まった考えで創造された側のほうに疑問を抱かせられた。

 音楽がなかなかよかった。Johann Johannssonは「Foxcatcher」の人ということで、なるほど雰囲気もぴったりだった。

2015年5月20日水曜日

Movie: Run All Night (2015)


 最近のLiam Neeson主演の映画が大体似たり寄ったりだとの予想は付くのだが、其れでも観てしまうのは、かつてMcQueenやBronsonが演じたスタイルに飢えてしまっているからだろう。こういう映画は最近ではレアな部類である。ただ、希望を言うならば、とことん古典風な作りが観たかった。例えば、近年良くある、ドローンから撮ったような画や、「The Matrix」のようなスロー効果は、何かが違う感じに受けた。

 ドラマとしては、アメリカに蔓延る社会問題を上手く料理している感じ。ただ、Godfather的な仲間内抗争場面では、昔と最近の人間の受け取り方が違って見え、あの頃に体験したような心から込み上げる迫力には至って居ない。

 多分、此の手の映画を鑑賞した後は、絶望感か爽快感を引きずるものだが、これは特に其れがなかったのが残念ポイント。悪くは無いのだが。

2015年5月9日土曜日

Movie: Birdman: Or (The Unexpected Virtue of Ignorance) (2014)


 暫く山陰にいたことで危うくこの映画を見逃すところだったが、ようやく埼玉のレイトショーで見ることができた。しかしなぜ、山陰ではこの面白い映画を上映しないのか?。その答えは、地域柄として個人が面白い映画を探求する姿勢がなく、飼い犬のように与えられた楽しみに満足している特有の生活スタイルが染み付いているからであろう。端的にいえば、事前に知っている映画こそが「面白い」論法にもなる。実はこの歪んだ娯楽の構造は、本作品の演出と共通するものが感じられる。中身から膨らませるのか、外面だけに力を入れるのか、序盤のテーブルを囲った会話などを含め、似つかわしいものがあった。

 カメラがヌルヌルと舐めるように演者を追う。かつて「E.T.」などでアングルとクローズアップでどこまで見せれるかという議論をした時代の...。あの感覚。それに加えての音の効果。ドラムの現実感、弦の非現実感。突然カットされる不安感など、所謂こういった映画として入り込める不思議な楽しさは、ここ数年味わっていないものだった。例えばドラムの効果的な使われ方は、「ツイン・ピークス」を連想させる不思議な高揚感があり、恐怖感である。

 余談。レイトショーだというのに、本編前の予告編の数が尋常でない。やめてほしい。レイトショーは予告編不要。

2015年4月27日月曜日

Movie: Parasyte(Kiseiju): Part 2 (2015)


  前作を観た手前、今回も観なければ安心できない性格の自分。褒めらたものではない。やはりこちらもアニメ版への肩入れをしつつ鑑賞。

  実写版はPart1を含め、全編通して御都合主義的な点はかなり気になった。もしこれがアクション映画にあるスリリングな中での御都合主義なら割り切れる面がある。しかしこの映画の中では、人間風刺や現代社会風刺などの色付けをしたいらしく、確固たる主題を持っている風に見せているが、実際何が言いたいのかがわからない。アニメでは、エピソードを分けつつ新一の変貌と人間らしさの描写が良かったのだが、この映画は人間の不安定な立ち位置しか残らなかったため、危機的な面での下りは御都合主義としか思えなかった。特に猟奇的な浦上の扱いについて、(映画自体、社会風刺の要素がある反面)この時勢にまるで当然の存在のように映されていた。こういた面は野放しになっている感が膨れ上がり、相当な違和感だった。

 映像技術に力点がある割に不十分なできに仕上がっているSFカテゴリーの日本映画は、今後も世界で注目されることは無いだろうし、一時的な興行が成功したとしても、日本映画の不安要素しか無いのである。実は最近のハリウッドも似たような傾向が目立って来た。たぶん、(何らかの理由があって)製作者側も「違和感有るが、まあいいや」的に作っているんだろう。それでも違和感が主張になっていれば進歩となりえるとは思う。でも、今回は(も?)そうでもなさそうだ。

2015年3月9日月曜日

Movie: Boyhood (2014)


 この映画は12年プロジェクトだそうで、カラフルなimacからiPod touchまでに至るアップルガジェットの歴史と照らしながら見れるところが面白い。また「ドラゴンボールZ」や任天堂などでも子供の楽しみ方を回顧させてくれた。

  イメージはかつての「アリスの恋」にも似ていたりするが、登場人物の成長を3時間弱で体感出来ることを思えば、過去に全く例のないスーパーリアルなロードムービーであることは間違いない。

  頭から追っていけば、整然とスナップショットが並んだコラージュのようにも思える中で、ワンシーンワンシーンに目が離せず、むしろ、まるでカノンのように年を経るごとに厚みを増してくる。

  長い年月の平穏と荒波の中でキーワードとなっていた責任感という言葉。人間としての在り方、前に向く姿勢、感情に流されない男の子の立ち位置を考えてみると、単なる人生の一コマが重圧にさえ感じられる雰囲気の演出。そこがなんとも言えない。一瞬はあっという間に流れる、しかしそれはそれは大事な大事な一瞬なのだ。そこを掘り下げたLinklaterは流石である。見事な作品だった。

2015年3月3日火曜日

Movie: Foxcatcher (2014)


この映画はアメリカの歴史の縮図的な例と言えるかもしれない。70年代頃は「Rocky」で沸いたようなアメリカンドリーム実現のための直向な努力と結果からくる英雄伝説こそがハリウッド向きスポーツ・サクセス・ストーリーだった筈である。しかし、その後は、性根をすえて裏に潜む闇を描けば、Michael Moore監督作品のようにいろんな側面が出てくることもわかった。しかもその多くは実話からくるものである。例えると、アメリカの銃社会がもたらす問題は、先日見た"American Sniper"にも似ているし、欝がもたらす問題を描けば"Jarhead"にもつながる。現在、このようなアメリカとそっくりな国が中国である。大量消費、地域格差、民族問題等数えればきりが無い。もしかしたら今のハリウッドは中国の振る舞いを見ながら以前のアメリカ社会にあった闇を再び呼び起こし、問題提起しているのかもしれない。

 この映画で印象的なのは、チーム・フォックスキャッチャーの勝利を祝うパーティで、BGMにDavid Bowieの"Fame"が流れ(歌詞はたしかJohn Lennon?)、その音楽が突然切られ、母と馬の話に流れる場面。根っ子になにかがあり、それが人を動かし、それが人を駄目にする...みたいな部分を拾えば単純に上から押さえつける力や麻薬だけでなく、師弟や肉親の間にある対抗心とかスポーツを超えた人の見方なども頭にいれなければならないと感じた。以前に日本にもあった柔道問題もそういうところかもしれない。

 日本の旗の中にある赤い丸は、白い旗の大きさとのバランスの重要性がある。映画で登場する日本選手の旗デザインは、「違う」部類だ。


2015年2月23日月曜日

Movie: American Sniper (2014)


 夜空のトランペット(Silenzio)のメロディを聴くのは随分と久しぶりだった。多分、Nini Rossoあたりが吹いた曲を覚えていたのかもしれない。映画の行き着くところは、結局はこのラッパの音で纏められるのだろう。脳裏に蘇った、かつての作品としては、戦地と母国の違和感が強調されていた「Jarhead」があるのだが、本来は「The Deer Hunter」のほうが近いのかもしれない。仲間(バンド)意識、或は家族意識に対するインパクト。そんなところとラッパの音が溶合っている感じは、Chrisの子供に対するいろいろな角度をもった視点からも悟ることができる。

 戦争映画は、作り手や作る国によってバイアスを伴う。TVシリーズの「COMBAT」などは善と悪を見事に設定し分けているが、相手の国にすればそうならないかもしれない。そしてそこには史実以上の脚色が伴う。反日の中国ドラマもそうだが、かならず観る側を満足させる点を持って来て、最後にはどちらかがベイビーフェースになり、どちらかがヒールを決めた作品になるのだ。しかしEastwood監督はそんな単純なことはしない。今回の映画では複数回向かった戦場を時間をかけて見せることをしていない。そのかわり、印象の糸を紡いでいく流れになっている。この辺が心をつかむEastwood監督らしい部分だ。

 ベトナム戦争以降の戦場を扱った映画は、どこかで皮肉な表現が伴う。「やられたら、やりかえせ!」を胸にしながらも、実際は「なにか違う」点を皆抱いているに違いない。

2015年2月16日月曜日

Movie: Fifty Shades of Grey (2015)


  不思議である。なぜこの手の映画を地方の(家族連れも多く来る)モールにある複合シアターで上映したのか。この手とは例えば「L'Empire Des Sens」「9½ Weeks」のような映画のことである。自分は前情報なしにタイトルだけで鑑賞したのだが、赤い部屋までは普通の恋愛映画と思っていた。そう、赤い部屋と言えば「Twim Peaks」を思い出すが、なるほど理屈の偏った点では共通点があるかもしれない。

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  ただ今の日本ではさほど驚く内容でもない。この手は深夜アニメにあってもおかしく無い系統のものだからである。極論を正論として押し通す感じは、突飛を基調とする深夜アニメの得意とするところだろう。それでもこの映画の男Christianの間歇泉のような性格は、9割の人間は敬遠したくなる筈。ところが相手の女Anastasiaが残りの1割側に居たため、終盤まで異様な男女関係を眺めさせられてしまう。ただ、最後だけは、その潔さが「怠い」流れを堰き止めた感じだ。

 ”welcome to my world”。Christianのセリフである。要は片側の世界観を闇に隠したような、タイトル意味も踏まえたHENTAI映画を印象づけるような言葉なのだが、女優の表情などからはHENTAI映画とレッテルを貼ってしまうには惜しいものがある気がする。事実、最初はTracy Hydeに人物像を被せたくらいだから。

2015年2月3日火曜日

Movie: Big Eyes (2014)


「偽りの芸術家」。日本でも最近この話題があった。これに関して率直に疑問があるとすれば、名声なのか?金なのか?得られるものは全てなのか? という点。というのも、近年、数十年前には当たり前だったことがそうでなくなって来ているからだ。例えば、犯罪と分かっていても、それ以前に得られた名声や金がその人の思う価値観として(犯罪を)上回っていれば、犯罪は単なる通過点でしかないという考え方。国際テロ組織の理屈も然り。日本で古くから学んできた決まり事の書物を全て封印しなければ実現できない事が、平然とまさに今。蔓延っている。この映画も実話に基づいているとのことなのだが、最近起こっている事件と接点があって実に興味深い。
   物語を単純に咀嚼するならば「今ならすぐバレる」感じの手である。しかし、冒頭のウォーホルの言葉などを使い、より真実性の道筋を補強しているバートンならではの手法に加え、時代の明るさというかコントラストが説得性を持っていたようだ。不思議と1950年代から1960年代頃の考え方として映ったのは、絵の取り扱い方とキャンバス上での描き方。「偽りの芸術家」。日本でも最近この話題があった。これに関して率直に疑問があるとすれば、名声なのか?金なのか?得られるものは全てなのか? という点。というのも、近年、数十年前には当たり前だったことがそうでなくなって来ているからだ。例えば、犯罪と分かっていても、それ以前に得られた名声や金がその人の思う価値観として(犯罪を)上回っていれば、犯罪は単なる通過点でしかないという考え方。国際テロ組織の理屈も然り。日本で古くから学んできた決まり事の書物を全て封印しなければ実現できない事が、平然とまさに今。蔓延っている。この映画も実話に基づいているとのことなのだが、最近起こっている事件と接点があって実に興味深い。
   物語を単純に咀嚼するならば「今ならすぐバレる」感じの手である。しかし、冒頭のウォーホルの言葉などを使い、より真実性の道筋を補強しているバートンならではの手法に加え、時代の明るさというかコントラストが説得性を持っていたようだ。不思議と1950年代から1960年代頃の考え方として映ったのは、絵の取り扱い方とキャンバス上での描き方。これらは大雑把ではあるが守るべきものは守る姿勢が見て取ることができ、最後にはヒーロイズムに繋がった点もこの映画の醍醐味だったのだろう。
  それにしても最初に登場する画商や娘には偽りがその時点でばれていたと思ったのだが、意外にも別の要因に引き摺られてしまい、豪邸のボヤも含めて頭の中で何時しか埋もれていった。
  印象のある場面を挙げると、8000平方の豪邸でありながらどこにでもありそうなテレビがかなり異色。やっぱり価値観を物に求める時は、電気、通信、記録機械などは除外しなければならないようだ。それらは先端技術の殻をもつ賞味期限付きのナマモノだからだ。これらは大雑把ではあるが守るべきものは守る姿勢が見て取ることができ、最後にはヒーロイズムに繋がった点もこの映画の醍醐味だったのだろう。
  それにしても最初に登場する画商や娘には偽りがその時点でばれていたと思ったのだが、意外にも別の要因に引き摺られてしまい、豪邸のボヤも含めて頭の中で何時しか埋もれていった。
  印象のある場面を挙げると、8000平方の豪邸でありながらどこにでもありそうなテレビがかなり異色。やっぱり価値観を物に求める時は、電気、通信、記録機械などは除外しなければならないようだ。それらは先端技術の殻をもつ賞味期限付きのナマモノだからだ。

2015年1月26日月曜日

Movie: Taken 3 (2014)


 観ていた思ったのだが、実に古典風アクションをテンプレにして作られた感が強かった。一方で、時代に似合わせた様なサクサク流れる演出は、逆に古さを拒否するかのような主張があり、特にストップモーションを使ったスピード感を出す場面あたりはよく見ていないと、頭が置いてきぼりを喰らう。この置いてきぼり感は後まで引きずり、全体的に場面場面が軽く感じる結果となった。
 古い映画ファンなら「Schindler's List」の敵の恐怖感や「Bullitt」や「Magnum Force」の飛行機アクションを連想しそうな要素も取り入れられ、昔を懐かしめる要素もある。それにしてもLiam Neesonの年齢に負けない派手なアクションに感心。
 CGに嫌気がさしているサスペンスアクション映画ファンには、いい感じで応えてくれる作品ではないだろうか。
ただ、それ以上を望んではならない。割り切って観る姿勢が必要。そう思いながらも、最後は娘を守る故のリスクが高すではなかろうか?とツッコミたくなった。

2015年1月4日日曜日

Movie: Big Hero 6 (2014)


 字幕版劇場を探すのに苦労しながら、やっと都心の劇場で見ることができた。ところが、これが米国版と思いきや、米国版と日本語字幕版は若干違うらしい。映画をこうまで多仕様に分け、公開することが作品を語る上で良いこととは思えない。何時ぞやの完全版とか特別編集版の存在意義でさえ昔から今に至るまで怪しい。

 久しぶりに日本のレビューを眺めて見た。かつて、ネットがなかった時代まで遡ると、観客は事前情報が無いこともあり、童心に帰ったようにワクワクしながら観たものだ。そこには理屈が先に立つ邪魔な拘りは無かった。それが今では、宣伝の誘導するかの如くイメージされた植え付け感と、ガチガチに凝り固まった理屈先導型コメントの多さにより、映画の行き先が決まっていなければならないかのようでもあり、人間としての更なる五感の損失を危むに相応するものだった。

 さて、自分がこの映画で注目したのは、日本のカルチャーへの唯ならぬ拘りが感じられたことで、原案はマーベルコミックかららしいが、戦隊もの、マジンガーZタイプのロボット、RPG、日本風のファンタジーなどアンテナをたてれば「男の子なら盛り上がる展開」になっていることが嬉しかった。前作の「Frozen」は男の子モードが希薄だったこともあり思い入れが皆無だったが、今回で十分な挽回になったのでは?と思う。しかし一方で女の子にはソッポ向かれそうでもある。

 やっぱり、字幕版で鑑賞して良かった。吹き替えは毎度毎度、違和感の山に苛まれることもあるが、オリジナルのハートが感じられるのはやっぱりオリジナル言語しかない。