2015年7月13日月曜日

Movie: Still Alice (2014)


 Julianne Moore演じるAliceと彼女の夫と子供たちの関係。一見普通であり、家族愛に満ちた幸せな家庭でもあり、権威もあり、何もかもが充実しているように見える構図なので、鑑賞する立場で言えば、やや見上げる目線でストーリーを追っていくことになるが、そこもまたこの映画の問題点提起にもなっているようだ。
 家族それぞれが持っている主張、プライド、考え方の距離感などが恰もサスペンス映画のように、講演の場面や観劇の場面、更には乳児を抱く場面でのAliceのしぐさに絡んでくるので、見ている側が受ける緊迫感が半端ではない。そしてAliceと娘二人との距離感が逆転していく様は残酷でもあり、必然でもある不思議な表裏の世界観。加えて夫の妻に寄り添う姿勢がありながらも何か心が自分の世界に飛んでいる雰囲気もまた効いていた。特にKristen Stewartの表情の変化もまた着目すべきである。

 最近の映画にはあまり音楽面で着目していなかったのだが、このピアノを加えた四重奏の演奏がとても印象的。ある意味でベートーヴェンの第九の第三楽章的な安堵と不安の感覚に近いものがあった。

 ここ最近出会ってなかったこの雰囲気の映画。もっとメインにしてもらいたいし、本来映画の持っている社会性を問えば、現状の映画ビジネスの鬱屈感から抜け出したと思うはずである。


2015年6月1日月曜日

Movie: Theory of Everything (2014)


 いったいこの映画に善悪や幸不幸が存在しうるのかという疑問を生むような、解の無い内容だった。世界でも有名なStephen Hawkingの伝記となっている。
 ふだんから考えていたことだが、成長するにつれ時間が短く感じる点について、例えば知らないうちに定量的概念を超越して本当に短くなっていたら、そこには時間の概念も打ち消されるのだろうとは思っていた。宇宙は宇宙であって、不思議的議論は人間だからこそ提起できるのだが、しかし宇宙は人間の考えた時間や物体のセオリーで片付けられない「何か」があって当然だろうから、幸せを求める男女関係もまた、そういう世界観になっていて当然だし、この映画自体がそういう作りになっていたことが面白い。 それにしても事実ならば、JonathanやElaineの存在は成り行きにしろ上手具合にマッチした存在だったのは、「何か」に繋がっているのかもしれない

 StephenとJonathanの関係が、同じ英国ながらEric ClaptonとGeorge Harrisonとの関係を思い出させられたりものして、ある意味で真理のあるものとしてとらえると、もしかしたら人間の凝り固まった考えで創造された側のほうに疑問を抱かせられた。

 音楽がなかなかよかった。Johann Johannssonは「Foxcatcher」の人ということで、なるほど雰囲気もぴったりだった。

2015年5月20日水曜日

Movie: Run All Night (2015)


 最近のLiam Neeson主演の映画が大体似たり寄ったりだとの予想は付くのだが、其れでも観てしまうのは、かつてMcQueenやBronsonが演じたスタイルに飢えてしまっているからだろう。こういう映画は最近ではレアな部類である。ただ、希望を言うならば、とことん古典風な作りが観たかった。例えば、近年良くある、ドローンから撮ったような画や、「The Matrix」のようなスロー効果は、何かが違う感じに受けた。

 ドラマとしては、アメリカに蔓延る社会問題を上手く料理している感じ。ただ、Godfather的な仲間内抗争場面では、昔と最近の人間の受け取り方が違って見え、あの頃に体験したような心から込み上げる迫力には至って居ない。

 多分、此の手の映画を鑑賞した後は、絶望感か爽快感を引きずるものだが、これは特に其れがなかったのが残念ポイント。悪くは無いのだが。

2015年5月9日土曜日

Movie: Birdman: Or (The Unexpected Virtue of Ignorance) (2014)


 暫く山陰にいたことで危うくこの映画を見逃すところだったが、ようやく埼玉のレイトショーで見ることができた。しかしなぜ、山陰ではこの面白い映画を上映しないのか?。その答えは、地域柄として個人が面白い映画を探求する姿勢がなく、飼い犬のように与えられた楽しみに満足している特有の生活スタイルが染み付いているからであろう。端的にいえば、事前に知っている映画こそが「面白い」論法にもなる。実はこの歪んだ娯楽の構造は、本作品の演出と共通するものが感じられる。中身から膨らませるのか、外面だけに力を入れるのか、序盤のテーブルを囲った会話などを含め、似つかわしいものがあった。

 カメラがヌルヌルと舐めるように演者を追う。かつて「E.T.」などでアングルとクローズアップでどこまで見せれるかという議論をした時代の...。あの感覚。それに加えての音の効果。ドラムの現実感、弦の非現実感。突然カットされる不安感など、所謂こういった映画として入り込める不思議な楽しさは、ここ数年味わっていないものだった。例えばドラムの効果的な使われ方は、「ツイン・ピークス」を連想させる不思議な高揚感があり、恐怖感である。

 余談。レイトショーだというのに、本編前の予告編の数が尋常でない。やめてほしい。レイトショーは予告編不要。

2015年4月27日月曜日

Movie: Parasyte(Kiseiju): Part 2 (2015)


  前作を観た手前、今回も観なければ安心できない性格の自分。褒めらたものではない。やはりこちらもアニメ版への肩入れをしつつ鑑賞。

  実写版はPart1を含め、全編通して御都合主義的な点はかなり気になった。もしこれがアクション映画にあるスリリングな中での御都合主義なら割り切れる面がある。しかしこの映画の中では、人間風刺や現代社会風刺などの色付けをしたいらしく、確固たる主題を持っている風に見せているが、実際何が言いたいのかがわからない。アニメでは、エピソードを分けつつ新一の変貌と人間らしさの描写が良かったのだが、この映画は人間の不安定な立ち位置しか残らなかったため、危機的な面での下りは御都合主義としか思えなかった。特に猟奇的な浦上の扱いについて、(映画自体、社会風刺の要素がある反面)この時勢にまるで当然の存在のように映されていた。こういた面は野放しになっている感が膨れ上がり、相当な違和感だった。

 映像技術に力点がある割に不十分なできに仕上がっているSFカテゴリーの日本映画は、今後も世界で注目されることは無いだろうし、一時的な興行が成功したとしても、日本映画の不安要素しか無いのである。実は最近のハリウッドも似たような傾向が目立って来た。たぶん、(何らかの理由があって)製作者側も「違和感有るが、まあいいや」的に作っているんだろう。それでも違和感が主張になっていれば進歩となりえるとは思う。でも、今回は(も?)そうでもなさそうだ。

2015年3月9日月曜日

Movie: Boyhood (2014)


 この映画は12年プロジェクトだそうで、カラフルなimacからiPod touchまでに至るアップルガジェットの歴史と照らしながら見れるところが面白い。また「ドラゴンボールZ」や任天堂などでも子供の楽しみ方を回顧させてくれた。

  イメージはかつての「アリスの恋」にも似ていたりするが、登場人物の成長を3時間弱で体感出来ることを思えば、過去に全く例のないスーパーリアルなロードムービーであることは間違いない。

  頭から追っていけば、整然とスナップショットが並んだコラージュのようにも思える中で、ワンシーンワンシーンに目が離せず、むしろ、まるでカノンのように年を経るごとに厚みを増してくる。

  長い年月の平穏と荒波の中でキーワードとなっていた責任感という言葉。人間としての在り方、前に向く姿勢、感情に流されない男の子の立ち位置を考えてみると、単なる人生の一コマが重圧にさえ感じられる雰囲気の演出。そこがなんとも言えない。一瞬はあっという間に流れる、しかしそれはそれは大事な大事な一瞬なのだ。そこを掘り下げたLinklaterは流石である。見事な作品だった。

2015年3月3日火曜日

Movie: Foxcatcher (2014)


この映画はアメリカの歴史の縮図的な例と言えるかもしれない。70年代頃は「Rocky」で沸いたようなアメリカンドリーム実現のための直向な努力と結果からくる英雄伝説こそがハリウッド向きスポーツ・サクセス・ストーリーだった筈である。しかし、その後は、性根をすえて裏に潜む闇を描けば、Michael Moore監督作品のようにいろんな側面が出てくることもわかった。しかもその多くは実話からくるものである。例えると、アメリカの銃社会がもたらす問題は、先日見た"American Sniper"にも似ているし、欝がもたらす問題を描けば"Jarhead"にもつながる。現在、このようなアメリカとそっくりな国が中国である。大量消費、地域格差、民族問題等数えればきりが無い。もしかしたら今のハリウッドは中国の振る舞いを見ながら以前のアメリカ社会にあった闇を再び呼び起こし、問題提起しているのかもしれない。

 この映画で印象的なのは、チーム・フォックスキャッチャーの勝利を祝うパーティで、BGMにDavid Bowieの"Fame"が流れ(歌詞はたしかJohn Lennon?)、その音楽が突然切られ、母と馬の話に流れる場面。根っ子になにかがあり、それが人を動かし、それが人を駄目にする...みたいな部分を拾えば単純に上から押さえつける力や麻薬だけでなく、師弟や肉親の間にある対抗心とかスポーツを超えた人の見方なども頭にいれなければならないと感じた。以前に日本にもあった柔道問題もそういうところかもしれない。

 日本の旗の中にある赤い丸は、白い旗の大きさとのバランスの重要性がある。映画で登場する日本選手の旗デザインは、「違う」部類だ。


2015年2月23日月曜日

Movie: American Sniper (2014)


 夜空のトランペット(Silenzio)のメロディを聴くのは随分と久しぶりだった。多分、Nini Rossoあたりが吹いた曲を覚えていたのかもしれない。映画の行き着くところは、結局はこのラッパの音で纏められるのだろう。脳裏に蘇った、かつての作品としては、戦地と母国の違和感が強調されていた「Jarhead」があるのだが、本来は「The Deer Hunter」のほうが近いのかもしれない。仲間(バンド)意識、或は家族意識に対するインパクト。そんなところとラッパの音が溶合っている感じは、Chrisの子供に対するいろいろな角度をもった視点からも悟ることができる。

 戦争映画は、作り手や作る国によってバイアスを伴う。TVシリーズの「COMBAT」などは善と悪を見事に設定し分けているが、相手の国にすればそうならないかもしれない。そしてそこには史実以上の脚色が伴う。反日の中国ドラマもそうだが、かならず観る側を満足させる点を持って来て、最後にはどちらかがベイビーフェースになり、どちらかがヒールを決めた作品になるのだ。しかしEastwood監督はそんな単純なことはしない。今回の映画では複数回向かった戦場を時間をかけて見せることをしていない。そのかわり、印象の糸を紡いでいく流れになっている。この辺が心をつかむEastwood監督らしい部分だ。

 ベトナム戦争以降の戦場を扱った映画は、どこかで皮肉な表現が伴う。「やられたら、やりかえせ!」を胸にしながらも、実際は「なにか違う」点を皆抱いているに違いない。

2015年2月16日月曜日

Movie: Fifty Shades of Grey (2015)


  不思議である。なぜこの手の映画を地方の(家族連れも多く来る)モールにある複合シアターで上映したのか。この手とは例えば「L'Empire Des Sens」「9½ Weeks」のような映画のことである。自分は前情報なしにタイトルだけで鑑賞したのだが、赤い部屋までは普通の恋愛映画と思っていた。そう、赤い部屋と言えば「Twim Peaks」を思い出すが、なるほど理屈の偏った点では共通点があるかもしれない。

Don't use image search keyword 'submissive'.

  ただ今の日本ではさほど驚く内容でもない。この手は深夜アニメにあってもおかしく無い系統のものだからである。極論を正論として押し通す感じは、突飛を基調とする深夜アニメの得意とするところだろう。それでもこの映画の男Christianの間歇泉のような性格は、9割の人間は敬遠したくなる筈。ところが相手の女Anastasiaが残りの1割側に居たため、終盤まで異様な男女関係を眺めさせられてしまう。ただ、最後だけは、その潔さが「怠い」流れを堰き止めた感じだ。

 ”welcome to my world”。Christianのセリフである。要は片側の世界観を闇に隠したような、タイトル意味も踏まえたHENTAI映画を印象づけるような言葉なのだが、女優の表情などからはHENTAI映画とレッテルを貼ってしまうには惜しいものがある気がする。事実、最初はTracy Hydeに人物像を被せたくらいだから。

2015年2月3日火曜日

Movie: Big Eyes (2014)


「偽りの芸術家」。日本でも最近この話題があった。これに関して率直に疑問があるとすれば、名声なのか?金なのか?得られるものは全てなのか? という点。というのも、近年、数十年前には当たり前だったことがそうでなくなって来ているからだ。例えば、犯罪と分かっていても、それ以前に得られた名声や金がその人の思う価値観として(犯罪を)上回っていれば、犯罪は単なる通過点でしかないという考え方。国際テロ組織の理屈も然り。日本で古くから学んできた決まり事の書物を全て封印しなければ実現できない事が、平然とまさに今。蔓延っている。この映画も実話に基づいているとのことなのだが、最近起こっている事件と接点があって実に興味深い。
   物語を単純に咀嚼するならば「今ならすぐバレる」感じの手である。しかし、冒頭のウォーホルの言葉などを使い、より真実性の道筋を補強しているバートンならではの手法に加え、時代の明るさというかコントラストが説得性を持っていたようだ。不思議と1950年代から1960年代頃の考え方として映ったのは、絵の取り扱い方とキャンバス上での描き方。「偽りの芸術家」。日本でも最近この話題があった。これに関して率直に疑問があるとすれば、名声なのか?金なのか?得られるものは全てなのか? という点。というのも、近年、数十年前には当たり前だったことがそうでなくなって来ているからだ。例えば、犯罪と分かっていても、それ以前に得られた名声や金がその人の思う価値観として(犯罪を)上回っていれば、犯罪は単なる通過点でしかないという考え方。国際テロ組織の理屈も然り。日本で古くから学んできた決まり事の書物を全て封印しなければ実現できない事が、平然とまさに今。蔓延っている。この映画も実話に基づいているとのことなのだが、最近起こっている事件と接点があって実に興味深い。
   物語を単純に咀嚼するならば「今ならすぐバレる」感じの手である。しかし、冒頭のウォーホルの言葉などを使い、より真実性の道筋を補強しているバートンならではの手法に加え、時代の明るさというかコントラストが説得性を持っていたようだ。不思議と1950年代から1960年代頃の考え方として映ったのは、絵の取り扱い方とキャンバス上での描き方。これらは大雑把ではあるが守るべきものは守る姿勢が見て取ることができ、最後にはヒーロイズムに繋がった点もこの映画の醍醐味だったのだろう。
  それにしても最初に登場する画商や娘には偽りがその時点でばれていたと思ったのだが、意外にも別の要因に引き摺られてしまい、豪邸のボヤも含めて頭の中で何時しか埋もれていった。
  印象のある場面を挙げると、8000平方の豪邸でありながらどこにでもありそうなテレビがかなり異色。やっぱり価値観を物に求める時は、電気、通信、記録機械などは除外しなければならないようだ。それらは先端技術の殻をもつ賞味期限付きのナマモノだからだ。これらは大雑把ではあるが守るべきものは守る姿勢が見て取ることができ、最後にはヒーロイズムに繋がった点もこの映画の醍醐味だったのだろう。
  それにしても最初に登場する画商や娘には偽りがその時点でばれていたと思ったのだが、意外にも別の要因に引き摺られてしまい、豪邸のボヤも含めて頭の中で何時しか埋もれていった。
  印象のある場面を挙げると、8000平方の豪邸でありながらどこにでもありそうなテレビがかなり異色。やっぱり価値観を物に求める時は、電気、通信、記録機械などは除外しなければならないようだ。それらは先端技術の殻をもつ賞味期限付きのナマモノだからだ。