2009年6月29日月曜日

Movie: Tsurugidake: ten no ki (2009)


The movie put in as if living without a map was happy for a human being.


 この映画を観た後「Seishoku no ishibumi (1978)」という映画を思い出した。原作がJiro Nittaという部分でも同じだが、撮影では、今回の監督をしているDaisaku Kimuraが担当した映画である。死と隣り合わせた真っ白になった顔の子供達を思い浮かべると(山の怖さを描いた映画としては)あまりにもインパクトが強かった記憶がある。今回は人の生死におよぶドラマ仕立てではない。むしろ山の四季折々の表情を長期に渡って撮影された成果という部分がにじみ出る。だから山の上での撮影に関わったスタッフやキャストの苦労が自然と「別の」物語を作るのだ。山には雪、風、雨、嵐、雷、霧...自然現象のいずれかが季節に関係なく極端な形で直撃してくる。もちろん快晴もある。登頂は所謂、数多くの困難を征し快晴の頂点から周囲を把握したものだけが得られる達成感ではなかろうか。これは政治にも通じるもので、近年目標が失われがちな情勢で「山に登って眺めてみる」ということが出来ない社会を残念思う気持ちにもなった。映画のシーンでもあったのだが、登頂を外面でしか見ないため、実質より軽く考えた挙句、1000年前の痕跡と対抗して「初登頂では無い汚点」に拘る陸軍測量部首脳にはまさに今のテレビで見ている政界報道に似つかわしく可笑しくなる。

 作品としてはかなり断片性が浮きだった綴れ折の産物である。陸軍と山岳会の初登頂への争いとか、パーティの意見の相違とか、導火線になりうる設定は登場するが、それにより映画の矛先を変えるまでには至らない。これはDaisaku Kimuraの考えなのかもしれない。飾ったドラマに転換することをせず、あくまで主役は「山の顔」であり、それを生かす考えを貫いたのだ思う。だからか映画が定石とするカットとカットの関連を会えて絶ち、映像の余韻(後味)も尾を引くことなく断ち切ることになる。挿入されているバロック期の音楽も映画の抑揚を抑えさせる。Jiro Nitta作品映画としてそれでよかったのかは疑問だが、日本の「Tsurugidake」を知ってもらえる映画にはなっている。

 それにしても、地図整備により世の中は良くなったのか?。子供の頃、海を見れば陽の昇る場所や沈む場所は知っていた。周辺の道は自分の足が記憶し、その方角も必然的に脳裏に展開された。奈良時代の僧侶が山に登るときも地図ではなく別の感覚がその場所へ誘導したのではないのか。地図は結局、その場所に住まない人のための道具。言い換えれば、その地域に不満な要因が発生したことで必用としたもの。本当に自分の住む地域生活が成り立っていれば、地図などは無用だったのでは。そんな気にもなった映画でもある。